「明鏡止水」の意味とは?ことわざや反対語、使い方や例文、具体例を紹介!
「明鏡止水」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
聞けばわかるけれども漢字がわからない、という人もいるかもしれませんね。
ここでは「明鏡止水」の意味や読み方、そして「明鏡止水」の境地について解説します。
目次
- 「明鏡止水」の意味とは?
- 「明鏡止水」の類義語とは
- 「明鏡止水」の対義語
- 剣道における「明鏡止水」
- 「明鏡止水」の境地とは
- 「明鏡止水」の例文
「明鏡止水」の意味とは?
「明鏡止水」というのは邪念が一切なく、落ち着いた心境を指します。
もともとは「曇りのない鏡と静かな水」ということを表しており、ここから「何のわだかまりもなく、澄み切って静かな心の状態」を指すようになりました。
- 「明鏡止水」の読み方
- 「明鏡止水」の語源
「明鏡止水」の読み方
「明鏡止水」は「めいきょうしすい」と読みます。
「あけかがみとめみず」ではありません。
「明鏡止水」の語源
『荘子』の「徳充符篇」に「人は流れる水ではなく止まる水こそ鏡とする。不動の心を持つものが安らぎを求める人にそれを与えることができる」という表現を書いたのです。
そこから「止水」という表現が出来上がりました。
そして「鏡に曇りがないのは塵がつかないからであり、塵が付くと鏡が曇る」という意味で「明鏡」という言葉ができたのです。
これは明鏡と止水の2つの似た意味を持つ単語をくっつけた熟語になります。
「明鏡止水」の類義語とは
「明鏡止水」の類義語を紹介します。
- 「虚心坦懐」【きょしんたんかい】
- 「光風霽月」【こうふうせいげつ】
- 「心頭滅却」【しんとうめっきゃく】
- 「則天去私」【そくてんきょし】
- 「大悟徹底」【たいごてってい】
「虚心坦懐」【きょしんたんかい】
虚心坦懐というのは「きょしんたんかい」と読みます。
「心にわだかまりがなく、気持ちがさっぱりしていることや平静に事に臨むこと、あるいはそのような状態」を指します。
虚心というのは心に先入観やわだかまりがなく、ありのままを正直に受け入れることができる状態、そして坦懐というのはわだかまりがなく、さっぱりしたものを指しています。
虚心坦懐という言葉も「明鏡止水」と同じく、虚心と坦懐という似たような意味を持つ表現をくっつけてできた言葉になります。
「光風霽月」【こうふうせいげつ】
光風霽月というのは「こうふうせいげつ」と読みます。
これも心がさっぱりとしており、澄み切ってわだかまりがなく、爽やかな状態を表します。
「日の光の中を吹き渡っている爽やかな風と、雨上がりの澄み切った空に映える月」という意味を持っているのです。
世の中がきちんとしている状態を指すこともあります。
「心頭滅却」【しんとうめっきゃく】
心頭滅却は「しんとうめっきゃく」は心に浮かんでくる雑念を除去することを指します。
「心頭を滅却すれば火もおのずから涼し」という表現の略であり、どんな苦難にあっても心から雑念をなくそうとすれば、困難を何とも感じない、ということを指しているのです。
心頭とは心の中という意味です。
「則天去私」【そくてんきょし】
則天去私というのは「そくてんきょし」と読みます。
私心を捨て、自然の道理に従って生きることを指しているのです。
則天とは天地や自然の法則に従うという意味を持っており、去私というのは私心を捨てるという意味を持っています。
夏目漱石が常に理想としていたモットーだったと言われています。
「大悟徹底」【たいごてってい】
大悟徹底というのは「たいごてってい」と読みます。
仏教の用語であり、煩悩を捨て去り、しっかりと悟ることを指しています。
大悟は悟る事、徹底は隅々まで行き届くこと、一貫していること、を指すのです。
「明鏡止水」の対義語
- 「疑心暗鬼」【ぎしんあんき】
- 「意馬心猿」【いばしんえん】
「疑心暗鬼」【ぎしんあんき】
これは「ぎしんあんき」と呼びます。
「疑いの心があると何でもないことであっても恐ろしく見えたり、不安を感じたりするものである」という意味を指しており、疑心というのはその名の通り疑う心、暗鬼というのは暗闇の中の亡霊を指しており、この亡霊というのは妄想から生じる恐れをさしているのです。
つまり、人を疑うような心を持っていると本来ならば存在しないような亡霊が暗闇の中に浮かんでくる、ということを表しているのです。
「意馬心猿」【いばしんえん】
意馬心猿は「いばしんえん」と読みます。
これは仏教の用語で、「煩悩や妄想のために心が乱れて落ち着かないこと」、あるいは「欲望や心の乱れを抑制することができない状態」を指しています。
心が混乱している様子を、気持ちを抑制することができずに走り回る馬や猿に例えた表現です。
剣道における「明鏡止水」
- 「放心」
- 「明鏡止水」
「放心」
剣道においては放心と「明鏡止水」という表現が存在します。
一般的に放心とは心を奪われてぼんやりしている状態などを指すことが多く、ぼんやりしている人のことを放心状態であるなどと言ったりしますよね。
しかし剣道の場合は「心を生かしに閉じ込めるのではなく、自由にしておき、どんな変化にも対応できる状態」のことを指します。
何かにとらわれることなく、心が自由になっている状態は自由に機能しますから、これが理想だとされているのです。
「明鏡止水」
剣道における「明鏡止水」も「曇りのない鏡のような心」、「波立たない静かな水面のような落ち着いた状態の心でいれば、相手の隙なども簡単にわかる」という意味で用いられています。
これも必殺技の1つです。
「明鏡止水」の境地とは
- 心乱すことなくお客さんからの評価を聞く
- 恩師からの助言を素直に受け止める
- 好きな人のありのままの姿を大切にする
- 『機動武闘伝Gガンダム』のハイパーモード
心乱すことなくお客さんからの評価を聞く
お店を営む者にとって、お客さんからの評価というものは大切ですよね。
お店などにもご意見ボックスなどが設置されており、お客さんからの意見や質問が紹介されていることがあります。
しかし、それらは必ずしも良い内容とは限りません。
「あの日のこの売り場にいたこの人がとても親切にしてくれた、とてもうれしかった」などという内容までは、「あの日こんなことがあった、これは直すべき」「あの日こんな店員を見た、これはいかがなものか」などという批判もあるものです。
むしろそのようなご意見ボックスに入れられる意見は批判の方が多いものです。
しかし、そのような批判であってもお店側は真摯に受け止める必要がありますよね。
「明鏡止水」の心境で批判を受け止めることにより、これからの改善につなげていけるのです。
恩師からの助言を素直に受け止める
誰にでも恩師は存在するものです。
しかしそのような人から助言を受けるとき、場合によっては厳しいことを言われることもあるでしょう。
良薬口に逃しと言いますが、あなたのことを思ってくれるからこそ、厳しい助言を受けることもあるものです。
しかし、批判的な助言を受ける時に心に邪念があったら自分を改善させることができません。
批判的な内容も静かに受け止める、冷静に受け止める、という気持ちこそ「明鏡止水」の心境といえます。
好きな人のありのままの姿を大切にする
誰であれ人生の中で好きな人や尊敬する人がいますよね。
ここでは好きな人ができたという状態を想像してください。
そもそもその人を好きになった理由は何でしょうか。
場合によってはその人がきれいだから、お金持ちだから、良い仕事についているから、など、邪念による理由が存在する場合もあるかもしれません。
そうではなく、たとえその人がきれいではなかったとしても、お金を持っていなかったとしても、仕事がなかったとしても、それでもその人と一緒にいたいというような気持ちこそ明鏡止水の心境といえます。
邪念がない状態で相手と一緒にいたい、その人のことが好きである、という気持ちが大切なのです。
『機動武闘伝Gガンダム』のハイパーモード
アニメ『機動武闘伝Gガンダム』の主人公ドモン・カッシュは「見えた!見えたぞ!水のひと雫!」のセリフと共に、師匠であるマスターアジア・東方不敗との戦いの中で明鏡止水の心を会得します。
ドモン・カッシュが明鏡止水の境地に達した時に金色に輝くハイパーモード状態になります。
それに合わせて、処刑BGM、「我が心 明鏡止水~されどこの掌は烈火の如く」が奏でられます。
「明鏡止水」の例文
- 「明鏡止水」の例文1
- 「明鏡止水」の例文2
- 「明鏡止水」の例文3
「明鏡止水」の例文1
「いろいろな経験をして、明鏡止水の心境に至ったよ」
日本は非常に平和な国だと言われています。
海外に行くと日本では考えられないようなことが平気で起こり、そんなところで生活をすると驚くことが頻繁に起こる、ということも珍しくありません。
しかしそのような経験を繰り返すことにより、何かが起こっても動じなくなります。
初めて海外に行き、カルチャーショックを受けたときにはものすごくドキドキしたかもしれません。
しかしそんな海外で様々なことを経験し、日本の良さが見えてきたとき、単純なことでは心が動じない、周りの人が驚いていても自分は全然驚くことなく冷静に対応できる、という時に「明鏡止水に至った」ということができます。
「明鏡止水」の例文2
「自分が常に動じてしまう、明鏡止水で物事を受け止められるようになりたい」
「明鏡止水」の心境に至るというのは決して簡単なことではありません。
人間には心というものがありますから、簡単なことで動じてしまったり怒りを感じてしまったりする事は決しておかしなことではありません。
しかし、可能ならばいちいち驚いたりせず、落ち着いて物事を受け止められるようになりたいですよね。
利害などを考えることなく、ありのままで物事を理解できるようになりたい、と思う人も少なくないでしょう。
そのような人は「明鏡止水の気持ちで物事を受け止められるようになりたい」などということができます。
「明鏡止水」の例文3
「あの時は焦ったけれど、今は明鏡止水の気持ちだ」
友達に裏切られたり恋人に振られたりすると誰しも心が乱されてしまいますよね。
相手を恨んだり自分を哀れんだり、あるいは自分がいる環境を憎んだりすることもあるかもしれません。
決して何かが違ったら状況が変わっていたとも言い切れないにも関わらず、どうしても悲観的になってしまう、ということもあるでしょう。
しかし、時間が経つに従って気持ちが落ち着き、例えば「自分はああするべきではなかった」「自分はこうあるべきだった」などと自分のことを冷静に見られるようになる場合もあります。
あるいは相手のことを1番に考え、「相手が幸せならばいいか」という境地に至るかもしれません。
そんな時は「明鏡止水の気持ちになった」と言えるのです。
いかがでしょうか。
「明鏡止水」の気持ちというのは消して簡単になれるものではありません。
そこに至るまでにはそれなりの人生経験が必要になりますし、様々な経験を経て人間は簡単に心が乱されないようになれるのです。
「明鏡止水」というのは理想的な状態ですが、もちろん人間なんですから、心が乱されることがあっても構いません。
しかし、必要なときには邪念を取り除き、静かな心境で物事を受け止められる「明鏡止水」のような気持ちも持つことができると良いでしょう。
特に「明鏡止水の境地に至る」「明鏡止水の気持ちで」などという表現はよく使いますからぜひ覚えておきましょう。