「凡百」の意味とは?類語、英語や使い方、例文を紹介!
「凡百」という漢字の意味からなんとなくどんな言葉かわかるが、読み方も曖昧だ、という方も多いのではないでしょうか。
ここでは「凡百」について説明していますので、どんな言葉か曖昧だ、知らない、という方はぜひ一読ください。
目次
- 「凡百」の意味とは?
- 「凡百」の英語
- 「凡百」の言葉の使い方
- 「凡百」を使った例文・短文
- 「凡百」の対義語
- 「凡百」の類語や類義表現
「凡百」の意味とは?
「凡百」は、いろいろな、かずかずの、もろもろの、といった意味で使われています。
ここでいう「凡」とは、すべて、みな、おしなべて、など全体的な、という意味で解釈され、「百」は数字の百ではなく、たくさんの、さまざまな、など数が多い、という意味で使われていると考えられます。
これらからも、いろいろなもの、という意味のほかに、多くのもの=ありふれていること、並であること、といった意味がうかがえます。
- 「凡百」の読み方
「凡百」の読み方
基本的には「ぼんぴゃく」の読みが正しいとされていますが、ほかに「ぼんひゃく」「ぼんびゃく」「はんぴゃく」などと読まれることもあるようです。
「凡」には「ボン」「ハン」のほかに、「すべ-て」「なみ」「およ-そ」といった読みがあり、「百」には「ピャク」「ヒャク」「ビャク」のほかに、「ハク」「もも」などの読みがあります。
どちらの漢字も一般に広く知られている漢字ですが、「凡百」という熟語は知らない、という方も多いかもしれませんね。
「凡百」の英語
「凡百」は、いろいろな、かずかずの、というところから、“many kinds”と訳されます。
また、ありふれた、並の、という意味で使われる際には、“common”や“commonplace”、“medium”、“ordinary”、などを使うといいでしょう。
どちらにしても、特別でないこと、ごく平凡であることを伝えることができれば、ニュアンスとして間違うことはないといえます。
「凡百」の言葉の使い方
「凡百である」といえば並のものである、ということになり、「凡百でない」といえば並以上のもの、ということになります。
「凡百」なのか、そうでないのかによって、意味が180度変わってくるのだ、ということを押さえておかれると、扱いをあやまることがなさそうですね。
「私が描いた絵はなんと凡百な作品だろう」
「私が描いた絵はなんと凡百でない作品だろう」
二つの文章を比べると、前者では自虐的なものになりますが、後者では言葉のとおり、自画自賛している文章となっています。
「凡百」を使った例文・短文
ではさらにいくつかの例文を挙げていく中で、「凡百」がどのように使われているのかを見ていきましょう。
「凡百」なのか、そうでないのかを判断しながら見ていってください。
- 「凡百」の例文1
- 「凡百」の例文2
- 「凡百」の例文3
「凡百」の例文1
「彼は寿司職人になってまだ五年と経たないが、思えばはじめから筋がよく、すでに凡百の職人をこえる腕を持っている」
職人もピンキリ、というと職人には喜ばれない話ですが、同じイタリアンを作っていても、家庭的なナポリタンを出す店もあれば、キャビアやフォアグラをふんだんに使用した高級イタリアンを出す店もあります。
凡百の職人をこえる、ということですので、並大抵の職人には出せない味や盛りの美しさ、洗練された所作などを手に入れている、といえます。
「凡百」の例文2
「その指摘は凡百の学生には思いもよらない鋭いものだった」
同程度の学力の人が集められていても、やはり聡明さで抜きん出た人、というのはどの学校にもいるように思います。
そういった学生たちは、ときに先生や教授をも言葉を詰まらせるような鋭い視座、視点を持っていることがあります。
「凡百」の例文3
「凡百な小説でがっかりした、と彼女はクールに笑った」
よほどお互いに相手を知っていなければ、「凡百」というワードが日常会話に出てくることはないかもしれませんが、このように普段遣いすることもできます。
この例文の場合では、小説がありふれたつまらないものだった、という意味で「凡百」が使われていますが、「凡百の小説とは違って興味深かった」となるとそれは、特別に秀でている、面白みのある小説、ということになります。
「凡百」の対義語
つぎに「凡百」の対義語にあたる言葉を見ておきましょう。
さきに「凡百」の意味がどのようなものであったかを思い出し、そして「凡百でない」というのがどのような意味であったかがわかると、対義語がどのような言葉になるか、おのずと浮かんでくることと思います。
- 「非凡」【ひぼん】
- 「際立つ」【きわだつ】
「非凡」【ひぼん】
一般的なものとくらべて非常に優れているさまを意味します。
「平凡」の反対語でもあり、平凡でないこと、という意味で使われます。
「凡百」が、平均的なもの、平凡なものがごろごろと転がっているような状態になりますので、「非凡」が対義語にあたる、というのはうなずけるでしょう。
「我が子には非凡な才能があるかもしれないと、どこの親も思うことがある」
「際立つ」【きわだつ】
ほかのものと比べてみるとはっきりと異なり、目立つという意味で使われます。
また、「際立つ」は良いことに対して使われることが多い、という点でも、「凡百」と対照的であるといえるでしょう。
「凡百でない」というのを別の言い方で「際立つ」ということができる、と覚えておかれると便利ですね。
「あの子がつくるものはいつも際立った出来栄えだ」
「凡百」の類語や類義表現
最後に類語表現を見ておきましょう。
さきほど解説したとおり、「平凡」も類語に当たると考えられますが、ほかにどのようなものがあるか、考えながら見てみてください。
「凡百」という言葉を知らなかった、という方も、知っている言葉の中に多くの類語があることに気づくことと思います。
- 「凡庸」【ぼんよう】
- 「月並み」【つきなみ】
「凡庸」【ぼんよう】
すぐれた点がなく、平均的であること、またそのような人のことを指します。
人はだれしもなにか秀でたものを備えているといわれますが、それがとても繊細な作業であったり、人目につきにくい能力であったり、特殊なものであるときには、なかなか理解してもらうことや、自分自身で気づくことができず、自分は凡庸である、と思い込んでしまうこともありそうです。
「凡庸であることは悪ではないが、大胆に生きてみたいと思わないではない」
「月並み」【つきなみ】
新鮮味がなく平凡であること、という意味で使われます。
毎月行われる句会を「月並会」と読んだそうですが、この会に出てくる程度の句はありきたりでつまらない、というようなところから、「月並み」という言葉が出てきたといいます。
「月並みですが、末永くお幸せになさってください」
このように、ありきたりで型にはまった言葉で恐縮ですが、と謙遜して言うときにもよく使われています。
「凡百」は、いろいろな、かずかずの、またはありふれた、並の、という意味で使われる言葉だとわかりました。
「凡百でない」人間になることはむずかしいように思えますが、千里の道も一歩から、小さな積み重ねが、時間とともに大きな成功や成果を生むのだと思います。