「懺悔」の意味とは?類語、使い方や例文、反対語を紹介!
「なぜ、あんな事をしてしまったのだろう」「本当に申し訳ない事をしてしまった」と後悔をするのは、良心があるからこそ湧いてくる感情です。
人としての道徳観や倫理観をしっかり持っているからであり、人の道を外してしまった事を思い悩んでいるからです。
人間は自分のしてしまった事に対し、反省や後悔をするものですが、中には「もっと上手くやれば良かった」などといったように、同じ反省や後悔でも自分の保身の為にする人もいます。
その場合は罪悪感はありません。
今回はそんな罪悪感を拭う為の「懺悔」についてお話ししたいと思います。
目次
- 「懺悔」の意味とは?
- 「懺悔」の類語や似たことわざ
- 「懺悔」の使い方
- 「懺悔」を使った例文
- 「懺悔」する心理
「懺悔」の意味とは?
「懺悔」とはそれぞれの宗教において過去に起こした罪や悪事などを告白し、赦しを乞う事をいいます。
基本的にはどの宗教(仏や神、自分にとって聖なる存在とされる者)であっても自らが起こした罪を告白する事で「心身共に苦悩から解放され、身が軽くなる」といった教えを説いていますが、この「懺悔」の読み方ややり方は各宗教によって違います。
- 仏教における「懺悔」
- キリスト教における「懺悔」
仏教における「懺悔」
仏教での「懺悔」は「さんげ」と読み、よく知られている「ざんげ」ではありません。
語源はインドのサンスクリット語である「クシャマ(堪忍寛容)」を漢字に訳したものであるとされています。
釈迦は、「懺恥の服は諸の荘厳に於て最も第一となす」という遺言を残しています。
これは、人間は罪を犯さずには生きていく事はできないけれど、自分の犯した罪を知って恥ずかしいと思う心を持つ事が出来るのであれば、どんなに素晴らしい服装・装飾品よりも美しいという意味になります。
仏教では仏に対して罪を告白し赦しを乞いますが、罪が全て消える訳ではなく、心が解放され二度と同じ過ちを繰り返さないようにという心の持ち方を変える事が目的とされています。
キリスト教における「懺悔」
キリスト教では「懺悔」を「ざんげ」と読みますが、実際キリスト教では「懺悔」とは言わずに「告解」「こっかい」と呼ばれているものがこの「懺悔」に当たると言われています。
実際にカトリックの方は「懺悔」と言われてもピンとこないと言う方もいるようです。
そしてこの「告解」「こっかい」がどのように行われるのかといえば、教会の片隅にある狭い部屋に入り、司祭が神に変わって仕切りを隔てた場所から罪人の告白を聞くという形で行われます。
「告解」「こっかい」は本来神に向けて罪の告白をしますが、司祭はこの告白を神に誓って他言・口外しない事が大前提となります。
また「告解」「こっかい」は「ゆるしの秘跡」とも呼ばれ、内容は告解と同じであり、洗礼以後に犯した罪の赦しを乞うことができる秘跡のことをいいます。
キリスト教では一度洗礼を受けるとその時に過去の全ての罪などが赦され、神の恵みを受けて神の子になると言われています。
そしてこの洗礼は一度きりなので、その後に犯した罪に対し悔い改めたくても困る事になってしまいます。
人間に完璧など存在しないので、このような「告解」「こっかい」という救いの手があるのです。
またこの他にも「礼拝」「れいはい」というものがあり、神に対し祈りを捧げる儀礼があります。
一般的に使われている「懺悔」の読み方はキリスト教の「ざんげ」からきていて、これは教会でのよくある「懺悔」のイメージが強い為で、それが浸透したのかもしれません。
「懺悔」の類語や似たことわざ
- 「改悛」【かいしゅん】
- 「悔悟慙羞」【かいござんしゅう】
- 「慚愧」【ざんき】
「改悛」【かいしゅん】
犯した過去の悪事や過ちを悔い改め、心を入れ替える事をいいますが、どちらかというと実際に刑事事件を犯し受刑者となった者が、心から反省する場合に使われる事が多いようです。
「悔悟慙羞」【かいござんしゅう】
自らの過去の悪事や過ちに気付いて後悔する事。
「悔悟」とは後悔して過ちに気付くことで、「慙羞」は自らを恥じることになります。
「慚愧」【ざんき】
慚愧は慙愧と書く場合もあり、元は仏教用語で「慚」と「愧」とは別の語とされています。
まず「慚」は自分自身に対して罪を恥じたり罪を犯さないと心に決める事をいい、「愧」は他人に対して罪を告白して恥じたり、罪を犯させないようにする事をいいます。
「懺悔」の使い方
何かに対し悔い改めたい時や、後ろめたい事がある時、ずっと心にモヤモヤがあり引っかかっている時、反省したり悩んでいる時などに自分にとっての聖なる者に対して聞いてもらい、赦しを乞う時に使います。
懺悔の内容はどんな物でも受け入れてはくれますが、刑事事件の様なものはまず、人間界での自分の罪を悔い改めてからではないといけません。
「懺悔」を使った例文
- 『懺悔をしたくて相手に連絡をしてみたけれど、全く取り合ってくれない』
- 『あんな事をしてしまったので、一生償うつもりでいるので、神の前で懺悔をしてやり直したい』
- 『懺悔をしてもまだ後悔が残っている』
- 『遺族に懺悔の手紙を書くか悩んでいるのは、自己満足になってしまうかもしれないからだ』
「懺悔」する心理
- 楽になりたいから
- 罪悪感を放ちたい
- 自分を変えるため
- 必死とされたい
楽になりたいから
まず懺悔をする事によってどうなるかといえば、罪からの開放ではないでしょうか。
むしろ罪の重さから解放されたいがために懺悔をする訳ですから当然といえます。
罪を犯したからといって、いつまでも苦しみ重い人生を歩まなくてはいけない訳ではありません。
猛省し罪の重大さをしっかり理解しているのであれば、少しは楽になってもいいはずです。
ずっと自分を苦しめる事が罰ではありませんしそれはそれで、自己満足かもしれません。
懺悔をし、少し救いの手を差し伸べてもらえることによって、楽になり自由になれます。
本来はそこからが罪と向き合える時間が生まれるのかもしれません。
窮屈な中では身動きが取れないので物事を客観視する事も難しいかもしれません。
そうなってしまうと考え方や感情が凝り固まり偏ってしまう可能性が出てきます。
その罪を犯した時に何を考えていたのか、何故そうなってしまったのか、そこに至るまでに何があったのかなども、気持ちに余裕がなければ真実を見る事ができません。
楽になりたいのは人間の本能であり、悪い事ではありません。
罪悪感を放ちたい
懺悔は自分の中で聖なるものに対してする行為ですが、その向こう側には傷付けた相手、見守ってくれ応援してくれている人達などが必ず見えているはずです。
つまり祈る事によって「自分は十分その罪の重さを分かっている」といった罪悪感を持つ事で、引き換えに罪の浄化と罪悪感からの解放を願っているのです。
ですが、逃れたいと思ったり、逃れられると思っているうちは懺悔にはなりません。
懺悔とは全てを認め、受け入れ、それを嘘偽りなく告白して心を入れ替える儀式ですので、逃げるためというよりは見つめ合うためにするのです。
本気で反省をするという事は逃げ出してはいけません。
自分の口で言いたくない秘密を話さなければいけませんし、後ろ指を指されるような事をしたのだと認めなければいけません。
そしてその事を口に出し告白が出来た時に、その勇気に対し自信がつき解放され、未来に光が差すのではないでしょうか。
その為に懺悔をする訳なので、罪悪感を放つには自分を見つめ認めなければいけません。
自分を変えるため
罪を悔やみ、反省し改心する事は当然ではありますが、いつまでも同じ場所にはいられません。
常に進化をし、赦しを乞いたいと最初に思った状態より前進していなければいけません。
懺悔によって少しずつ罪悪感から自由になり解放されていくと、本人自体の心にも少しずつ変化が見られてきます。
懺悔をする事で楽になり、心の拠り所がでてきます。
今までとは違った、考えた事もなかったような思考ができるようになったり感情が生まれる事もあるでしょう。
柔らかく優しく、温かく和やかになれたり、痛みを知り愛を知るかもしれません。
もちろんこれらは何度も言いますが本気で改心し、猛省し生まれ変わりたいと思っている人に限られた事です。
うわべでの懺悔は懺悔ではありませんし、何より本人に変化もなく取り繕ったところで見透かされてしまうでしょう。
そして本気で懺悔をし赦しを乞う人は、罪が消えない事も過去が変わらない事も分かっています。
良心があるからこそ懺悔をする訳なのでずっとそんな事を考えてもいないでしょう。
そして変わり始めた自分を感じる事で更に誠意や誠実さを届けたいと思うようになりますし、物事をポジティブに捉えられるようになっていくので、自分のためにも懺悔をするのではないでしょうか。
必死とされたい
懺悔をすることによって心が開けてきたら、自分の存在価値や意義を考えだすようになります。
人にとって究極に大切な事は他人から愛され、認められ、必要とされる事です。
赦しを乞う事によって「罪を犯した、そんなあなたでも大丈夫。繰り返さないように生きなさい」と聖なるものから背中を押されている気になれ自信がつくのかもしれません。
存在してもいいんだ、必要とされているんだと感じる事が出来れば、本当の意味で反省ができ可能性や視野が広がるのではないでしょうか。
二度と同じ過ちを起こさないよいに努力をするようになれるには必要とされている事を信じなければいけません。
人間には完璧や完全はありません。
必ずミスや失敗をしますし、足りないところや弱い部分があるものです。
生きていく中で、その至らない部分をいかに努力をしてカバーをしたり、長所に変えていくかが重要になります。
それは「懺悔」をしたい程の過ちを犯してしまった場合も同じ事がいえるでしょう。
『罪を憎んで人を憎まず』という言葉がありますが、人を憎むのではなく、その事象自体が問題だと思わなければいけないと言う事です。
勿論綺麗事では片付けられない部分もありますし、人は感情の生き物なので簡単ではありません。
ですが罪を犯した人間が、本当に心から反省をし、悔い改め、必死で誠意を表し、生きようとしているのであれば、赦すことが難しくてもその姿勢を認める余地は必要なのではないでしょうか。