「以心伝心」の意味とは?類語、対義語や使い方、例文を紹介!
人間は言語を持つ動物ですから、それによって高等な作業を、集団で行う事ができます。
ではその昔、マンモスを狩っていた古代の人たちは、言葉もろくに発達していない時代にどうして共同作業が出来ていたのでしょうか。
本項では「以心伝心」という、相手の思いを最大限に汲む言葉について解説していきます。
目次
- 「以心伝心」の意味とは?
- 「以心伝心」の語源
- 「以心伝心」の言葉の使い方
- 「以心伝心」を使った例文・短文
- 「以心伝心」の英語
- 「以心伝心」の対義語
- 「以心伝心」の類語
「以心伝心」の意味とは?
一口に言えば「二者以上の間において、理解するのに言葉がいらない状態」の事をいいます。
一般的に、人類における意思の伝達は言語によって行われます。
内容が複雑、または重要なものであればあるほど、口頭での直接指示、または文書による説明が必須となってきますが、そうしたプロセスを必要とせず、端から見ればどこでコミュニケーションが図られたのかわからないような簡潔さで、二者以上がその趣旨を理解し、足並みを揃えて行動する、そうした場合を指して「以心伝心」と呼ぶ事があります。
またあくまで隠語としてですが、自由恋愛の末に結婚した間柄をこう呼ぶ事もあるようです。
- 「以心伝心」の読み方
「以心伝心」の読み方
「いしんでんしん」と読みます。
「以」は普段「以て(もって)」「以上、以前」などと、ある手段や基準点を示す場合の言葉として使われますので、「心をもって心を伝える」という事になります。
こうした二字めと四字めに同じ漢字を繰り返す四字熟語には、ほかに「有象無象」「四苦八苦」「海千山千」「一切合切」「四方八方」…と幾らでも列挙する事ができ、日本語独特のリズムの良さを出すのに一役買っています。
「以心伝心」の語源
多くの熟語同様、仏教をその由来としており、今から千年ほど前に中国で編纂された「景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)」にその記述が見られます。
これは禅宗における高名な禅僧の伝記を集めた書物であり、その中で「仏法の教えを書物などに頼るのではなく、師から弟子へ心を通じて教え受け継いでいく」というような趣旨でこの言葉が書かれています。
ここから現代では「言葉を介さず理解する」という用いられ方をするようになりました。
ちなみにこの「景徳伝灯録」には他にも「竜頭蛇尾」などのいわゆる故事成語が見られる書物でもあります。
「以心伝心」の言葉の使い方
前述の通り人に複雑な手順を説明するには、ほとんどの場合言葉が不可欠です。
しかし同じ練習をひたすら繰り返してきたスポーツチーム、同じ作業に携わってきた同僚などは、もう何も言わなくても、せいぜい顔色をちらっと窺うだけで理解が出来、むしろ言葉は時間のロスでさえある、という場合もあります。
では、そもそも全く言葉がわからない外国人や宇宙人どうしだったらどうでしょうか。
その場合も、我々は身振り手振りや表情で一生懸命何かを伝えようとする(そして、意外に解ってもらえる)はずです。
またこの言葉はまるで超能力のように扱われる事もありますが、決して同義ではありません。
テレパシーのように無条件に相手の心に侵入するのではなく、相手への思いやりや長年の付き合いから生まれる感情・パターンを自然に予測するのが以心伝心であり、単なる勘ともまた違うものであるという事がいえます。
以心の部分だけでも言葉としては成立しますが、現代ではあまり用いられる機会はなく、ほとんど「以心伝心」でひとまとまりと認識されているようです。
「以心伝心」を使った例文・短文
- 「以心伝心」の例文1
- 「以心伝心」の例文2
- 「以心伝心」の例文3
「以心伝心」の例文1
「黄金のコンビと呼ばれる卓球ダブルスの二人は、先の大会における以心伝心のプレイで語り草になっている」
「以心伝心」の例文2
「ある双子のマラソン選手は私生活から行動まで何から何まで似ており、噂によると競技中に腹を壊すタイミングまで一緒だったという。これも一種の以心伝心によるものだろうか」
「以心伝心」の例文3
「長年の付き添いなので、社長のやりたい事は以心伝心でわかるようになった」
「以心伝心」の英語
口頭での意思伝達を“oral communication”(オーラルコミュニケーション)と言いますが、これに対する言葉には“tacit”(副詞形“tacitly”)といったものがあります。
意味はそのまま「無言の、暗黙の、言葉に出さない」であり、例えば“tacit manner”で「暗黙のマナー」となります。
「以心伝心」の対義語
解釈によって何通りか考えられますが、ここでは「隔靴掻痒(かっかそうよう)」「演説」を挙げます。
隔靴掻痒は読んで字の通り、足が痒いのに靴を隔てて掻きむしるしかなく、従って非常にもどかしい思いをしている状態の事です。
演説、スピーチはまさに言葉を以て考えを述べる行為であり、例えばいくら優れた政治家でも、一から十まで沈黙を保ったままの演説などは存在しません。
「以心伝心」の類語
- 「一心同体」【いっしんどうたい】
- 「暗黙の了解」【あんもくのりょうかい】
- 「阿吽の呼吸」【あうんのこきゅう】
- 「拈華微笑」【ねんげみしょう】
- 「ツーカー」【つーかー】
「一心同体」【いっしんどうたい】
「心は一つ、体は同じ」とは生理学上無理な状態ですが、そのくらい強い気持ちの同調があり、深い絆があるという例えです。
以心伝心よりもさらに密なつながりをあらわします。
「暗黙の了解」【あんもくのりょうかい】
その場でいちいち断りを入れなくとも、元々ある符丁、決まりの事をいいます。
これはやや「予め決められている」感が強く、従って場面場面の相互理解という意味合いの強い以心伝心とは若干使う場面も異なります。
「阿吽の呼吸」【あうんのこきゅう】
阿と吽はそれぞれ、仏教の呪文における最初の文字と最後の文字です。
これに因んだのが阿形(口を開いている仏像=最初の文字)、吽形(閉じている仏像=言葉の終わりを表す)であり、ここから転じて、呼吸のリズムを合わせて何かを行っている一組を指して「阿吽の呼吸で動いている」などというようになりました。
「拈華微笑」【ねんげみしょう】
これも禅宗を由来とする言葉です。
仏教の開祖とされる人物の、おもむろに花を拈(ひね)るという一見何ということもない行為を、その場にいた人々のうち高名な弟子のみがその真意を理解してほほえんだ、という言い伝えに因んだものです。
仏の教えは必ずしも言葉によらない、という事であり、以心伝心の由来とほぼ同義といえます。
「ツーカー」【つーかー】
俗語ではこのような表現があり、「あいつと俺はツーカーの仲」などといいます。
俗世間から自然に流行したものですからはっきりした由来は不明ですが、「〜つうわけだ」の「つう」と「そうかあ」の「かあ」を取った、心が通じる「通過」が訛った、と色々な説があります。
いずれにせよ理解するのに余分な言葉はいらない状態を指す事に違いはありません。
その意味は我々もよく知る所ですし、類する言葉も探せばたくさん出てくる事がわかりました。
しかし重ねて言うように、以心伝心とは勝手に伝わるテレパシーの類ではありません。
そこに多くの経験の堆積や相手への強いアプローチの気持ちがあって、初めて生まれるものなのです。
昨今では色々無用な釈明や謝罪が求められてしまう社会になりつつありますが、この「以心伝心」のように言葉は不要とまではいかなくとも、歩み寄りや理解の気持ちを持つ事が大切といえるでしょう。