「水清ければ魚棲まず」の意味とは!類語や例文など詳しく解釈
「水清ければ魚棲まず」ということわざの表現は、「水が清冽で綺麗すぎると魚も棲むことができない」という直接的な意味がありますが、そこからどのような意味が生まれたのでしょうか?「水清ければ魚棲まず」のことわざの「意味・読み方・使い方・類義語」を、詳しく解説していきます。
目次
- 「水清ければ魚棲まず」とは?
- 「水清ければ魚棲まず」の語源
- 「水清ければ魚棲まず」の表現の使い方
- 「水清ければ魚棲まず」の類語や類義語
「水清ければ魚棲まず」とは?
「水清ければ魚棲まず」ということわざの表現は「水が清冽(せいれつ)で綺麗すぎると、逆に魚も棲めなくなってしまう」という意味から転じて、「わずかな不正・手抜きも許せないほどに、人格が高潔・清廉に過ぎるとかえって人に親しまれずに孤立してしまうことの喩え(たとえ)」を意味しています。
「水清ければ魚棲まず」ということわざは、「一切の妥協・譲歩もできないほどに、高潔(潔癖)すぎる人柄を持っていると、逆に人から好かれず世の中をうまく渡れないことの喩え」を意味しているのです。
- 「水清ければ魚棲まず」の読み方
「水清ければ魚棲まず」の読み方
「水清ければ魚棲まず」の読み方は、「みずきよければうおすまず」になります。
「水清ければ魚棲まず」の語源
「水清ければ魚棲まず」の語源は、古代中国の古典『孔子家語 入官(こうしかご にゅうかん)』にあります。
『孔子家語』にある「水至清即無魚、人至察則無徒(水が清らかに過ぎれば魚は住まず、人が潔白に過ぎれば友ができない)」という一節が、「水清ければ魚棲まず」の語源とされています。
「水清ければ魚棲まず」の表現の使い方
「水清ければ魚棲まず」の表現の使い方は、「ある人の人格・倫理観が高潔すぎて、他者から親しまれずに孤立しているような場合」や「非現実的なほどに人間性が清廉すぎて、世の中を上手く渡れない場合(人格・環境が少しの不正も許さないほど潔癖にすぎて、逆に人が寄り付かない場合)」に使うという使い方になります。
「水清ければ魚棲まず」の類語や類義語
「水清ければ魚棲まず」の類語・類義語のことわざを紹介して、その意味を解釈していきます。
- 「人至って賢ければ友なし」【ひといたってかしこければともなし】
- 「人と屏風は直ぐには立たず」【ひととびょうぶはすぐにはたたず】
「人至って賢ければ友なし」【ひといたってかしこければともなし】
「人至って賢ければ友なし」ということわざは、「人は知性・賢明さの水準が高くなりすぎると、(その知性の高さ・賢い考えについていける人はほとんどいないので)かえって友達がいなくなることの喩え」を意味しています。
「人至って賢ければ友なし」のことわざは、人間性・倫理観が潔癖すぎると人が寄り付かなくなるを示す「水清ければ魚棲まず」に近しい意味を持つ類語(シソーラス)として考えられます。
「人と屏風は直ぐには立たず」【ひととびょうぶはすぐにはたたず】
「人と屏風は直ぐには立たず」ということわざは、「屏風は曲げないとまっすぐなままでは立てられないように、人間も一切の妥協・譲歩をせずに、自分の正義・意志をまっすぐ貫くだけでは生きていけないという現実主義的な考え方の喩え」を意味しています。
「人と屏風は直ぐには立たず」のことわざは、人格が清廉過ぎると世渡りできないを示す「水清ければ魚棲まず」と良く似た意味を持つ類義語として解釈できます。
この記事で解説した「水清ければ魚棲まず」のことわざの表現には、「人格が清廉(せいれん)すぎると、逆に人に親しまれないことや世の中で通用しないことの喩え」などの意味があります。
「水清ければ魚棲まず」の類語・類義語として、「人至って賢ければ友なし」「人と屏風は直ぐには立たず」などがあります。
「水清ければ魚棲まず」ということわざについて詳しく調べたい時は、この記事を参考にしてみて下さい。