「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の意味とは?使い方や例文を紹介!
今回ご紹介させて頂くのは、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉です。
非常によく聞く言葉ではあるのですが、この正確な意味や、元々の出典などについては、知らないという方も多いのではないでしょうか。
また、この言葉は現代を生きる私たちにとっても、非常に重要な教訓を示してくれています。
皆さんの生活のことを振り返りながら、この「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉の解説を是非、役立てて頂きたいと思います。
目次
- 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の意味とは?
- 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」に似た言葉
- 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」に似た英文
- 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を使った例文
- 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」から学びたい事
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の意味とは?
この言葉は、度が過ぎたことを戒める意味合いで使われます。
元々この言葉は、東洋の道徳観に非常に大きな影響を与えた、中国の思想家「孔子」の書、「論語」の中に記された言葉です。
孔子には、彼の考え方を学びたいと数多くの弟子が集まっていました。
その中に、「師」と「商」という二人の弟子がいました。
ある時、弟子の一人が「師と商は、どちらが優れていますか」と孔子に訊ねます。
孔子は、「師は度を過ぎていて、商は基準に達していない」と答えました。
「では、師の方が優れているということでしょうか」と聞きます。
孔子の答えは、意外なものでした。
「度を過ぎているのは、基準に達していないのと同じことだ」
基準に達していないことは、当然ながら良くないことだと考えられます。
ですが、必要以上に度が過ぎているというのも、基準に達していないのと同じくらいに良くないことである、というのが、この話において孔子が弟子に伝えたとされる教えです。
何事に関しても「中庸」、つまりは程ほどが肝心であり、やり過ぎる事は、足りないのと同じくらい良くないもので、良いと言われることでも、やり過ぎは害になってしまう。
孔子の残した言葉は、このような意味を持っているのです。
- 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の読み方
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の読み方
「すぎたる・は・なお・およばざる・が・ごとし」と読みます。
多くの方が、「過ぎたるは及ばざるが如し」と、「猶」を抜かして覚えているのではないでしょうか。
もちろん、意味として決して間違っている訳ではありません。
ですが、この言葉の原典を考えれば、正しいとは言いがたいのも事実です。
この言葉は先の項目で既に述べたとおり、「孔子」の記した書、「論語」の中に登場する言葉で、漢文では「過猶不及」と記述します。
この「猶」という文字は「再読文字」と呼ばれるもののひとつで、漢文を日本語の書き下し文として読む際、この文字を読み方を変えて二回読む、というルールが存在します。
最初に呼んだ場合は「なお」、二度目は「ごとし」という形になるため、途中の「猶」が抜けてしまうということは、最後の「如し」も消えてしまう、ということになり、非常に不自然です。
中国から伝わった言葉は、このように漢文が基準となっています。
細かいことかもしれませんが、ルールは正しく覚えておきたいものですね。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」に似た言葉
過剰なこと、やり過ぎを戒める言葉というのは、様々なことわざとして現在に伝えられてきました。
ここではそんな「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と意味の近い、幾つかのことわざをご紹介させて頂きます。
- 薬も過ぎれば毒となる
- 分別過ぐれば愚に返る
- 礼も過ぎれば無礼になる
薬も過ぎれば毒となる
現在の日本では、西洋医学に基づく化学療法が一般的な病気に対する治療法になっており、病院へ行けば、診断と共に様々な薬を処方してもらえます。
そこでは食事の後や寝る前に一錠などといった形で、適切な薬の量をきちんと提示されていると思います。
この用法や容量を守らず、「治療薬だから」と一気に飲んだ場合、必要以上の薬の効果によって、身体に悪影響が起きてしまったり、場合によっては重篤なアレルギー症状などで死に至る場合もあります。
孔子が生きていた時代にも、漢方薬などがありましたが、これもまた自然界にある薬としての効能を持つものを利用していますから、当然、飲みすぎれば現代の薬と同じように思い副作用に襲われます。
身体に良いからどんどん摂取すればよいというものではなく、何事にも身体が許容できる適量というものが存在します。
この言葉もまた、薬の過剰な使用を戒めるという意味合いで、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と似た言葉であると言えるでしょう。
分別過ぐれば愚に返る
「分別」とは、物事の是非や損得についてよく考える事を指します。
確かに、何かを行う際、起こりうる様々な問題について考えたり、何かを買う時によく吟味したりすることは大事なことでしょう。
ですが、人間の脳は元来、ネガティブなことを考えやすくなっているようで、あれやこれやと考えている内に、こんな悪いことが起きるのではないか、あるいは、これを買わなければ後で嫌な思いをするのではないか……と、起こる確率の低い悪い想像についてぐるぐると思いを巡らせてしまい、ネガティブ思考の連鎖に陥ることが多々あります。
必要以上に考えて不安に駆られてしまうのは、決して健全とは言えません。
結局、何か行動を起こしても、些細な形で後悔が残る事は充分あるのですから、ある程度で考える事をやめて、行動に移すという切り替えが大事と言えるでしょう。
礼も過ぎれば無礼になる
礼節というのは良好な人間関係を構築するために大変重要なものです。
挨拶や敬語など、日本の文化の中にも礼節の考え方は脈々と息づいています。
とはいえ、やはり礼節も度が過ぎれば悪いものと捉えられることもあります。
礼儀を気にし過ぎるあまり、礼節が形だけのものになってしまったり、相手の機嫌や顔色ばかりを伺うだけになってしまう場合には、たとえ、それだけを見れば正しい礼儀作法のようだったとしても、もはや相手への敬意を欠いたものになり、意味がありません。
近い意味合いのものとして「慇懃無礼」という言葉がありますが、これは、表面上は丁寧に見えるものの、内心は相手を見下しているという、尊大な様子を指します。
このように必要以上の礼儀というものは、かえって失礼と捉えられてしまうことさえあるのです。
これもまた適切な距離の取り方や、必要以上の礼儀を戒めるなど、過剰なことに対する警鐘を鳴らしている言葉だと言えるでしょう。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」に似た英文
やり過ぎや過剰さといったことを戒める考え方は、東洋だけでなく、欧米諸国にも古くから存在します。
人間が生きていく上での倫理観は、国や地域、人種に囚われることなく、普遍のものとして人々の中に伝えられてきました。
ここでは、西洋における「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と似た、過剰に対する考え方について、言葉を紹介していきたいと思います。
- “More than enough is too much. ”
- “The orange that is too hard squeezed yields a bitter juice. ”
“More than enough is too much. ”
和訳すると、「十分以上は多すぎる」となります。
例えば食料などを備蓄すると考えた場合、必要な分を超えて、あまりに大量に溜め込んでしまうと、腐ってしまったり、劣化してしまったりするなどして、結局駄目になる、ということもありえます。
また、一人が必要以上に抱え込み過ぎることで、他の人が備蓄するための食糧がなくなってしまうかもしれません。
これもまた、「過ぎたことが良いとは限らない」という、ひとつの道徳観の考え方と言えるでしょう。
東洋だけでなく西洋にもこういった考え方があるというのは、人類の倫理観を考える上で、非常に興味深い点ではないでしょうか。
“The orange that is too hard squeezed yields a bitter juice. ”
和訳は、「オレンジを絞りすぎると苦いジュースができる」となります。
確かにオレンジの果汁は甘酸っぱく美味しいものです。
上手に絞れば大変美味しいオレンジジュースができるのですが、実はオレンジの外皮や薄皮、果肉の中にさえも、ナリンギンやリモノイドといった苦味成分が含まれており、必要以上に果汁を搾り出そうとすると、そういった苦味の元になる成分までジュースに溶け込んでしまうのです。
欲張りすぎずに適切な手法を守る。
手をかけすぎることがかえって悪い結果をもたらすことは、料理の世界に限らず、様々な場面であるものです。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を使った例文
ここでは、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を使った例文を提示し、正しい使い方についてご説明していきたいと思います。
この言葉は、偏った過剰な考えや方法に対して、「それはやり過ぎだろう」という否定的な考えや、戒めの意味を込めて用いるのが正しい用法です。
では、例文を見てみましょう。
「食事がサプリメントだけなんて、過ぎたるは猶及ばざるが如しではないか」
サプリメントの飲み方について、過剰であると指摘する文になっています。
現在、世界的な健康ブームの中で、様々なサプリメントが生まれ、人々の間に普及するようになりました。
皆さんの中にも健康のために愛飲している方も多いのではないでしょうか。
とはいえ、サプリメントはあくまでも「栄養補助食品」です。
人間に必要な栄養素は様々な種類が存在し、どれかひとつでも欠けてしまうと、体調に悪影響を及ぼしてしまいます。
普段の生活で足りない分の栄養素を、サプリメントで摂取するのは、もちろん正しい用法ですが、中にはサプリメントをきちんと飲んでいるのだから、食事などしなくても良いのだと、間違った解釈をしている方もいます。
そのような偏った考え方では、かえって健康を損ねてしまいます。
健康のために、あくまでも栄養は「バランス良く」を心がけたいですね。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」から学びたい事
この言葉は、私たちの普段の生活にあてはめてみると、様々な解釈ができるでしょう。
好きなものでも食べすぎは良くないといったような、身近なこととしてみても、それは道理として当てはまるでしょう。
ですが、ここでは少し、別の考え方を提示してみたいと思います。
例えば、何か重要な仕事があるとします。
それに大して一生懸命注力し、努力することは、もちろん素晴らしいことです。
ですが近年、人々の多くが持っている、ある考えが、様々な諸問題を生み出しているのではないかと警鐘を鳴らす声が出てきました。
それは「完璧主義」という考え方です。
もちろん、何かをしようという時、できる限り完璧に近いものにしたいというのは、向上心を持つ人間であれば、誰しも思うことでしょう。
ですが、人間の心や身体には、限界というものが存在します。
限られた時間や、自分の中のノウハウだけで解決しようとすると、自分自身で思い描いている完璧な図と比べて、確かに見劣りしてしまうようなことが幾つもあると思います。
ですが、自分の限界や能力を無理に超えようとすれば、それは大きなストレスとなって、身体を蝕んでしまいます。
その結果として、理想通りになれない自分を責めてしまったり、必要以上に悩んでしまうということも、十分ありえることです。
近年、「うつ病」を患う人が非常に増えたと言われていますが、この事態の根底には、この「完璧主義」を良しとする考え方が、どこかにあるのではないでしょうか。
人間は決して、全てにおいて完璧な生物ではありません。
失敗もしますし、駄目なところも大いにあるでしょう。
そこからより高みを目指すのはもちろん良いことですが、その結果、自分自身がぼろぼろになってしまっては意味がありません。
孔子は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という教えの中で、「やり過ぎは、足りないことと同じくらい良いことではないよ」と解いています。
彼の考え方は「中庸」、つまり「ほどほど」を良しとしよう、というものです。
仕事に対して締め切りが設定されているのであれば、多少完成度が低くても間に合わせることを考える。
自分ひとりでどうにもできないことがあるのならば、周りの人たちに助けを求め、協力してもらう。
そういった抱え込みすぎない「バランス感覚」こそが、現代の私達が生きていくために、必要なことなのではないでしょうか。
孔子の教えは捉え方、解釈の仕方次第で、確かにその意味合いが大きく変わってしまうものでもあります。
ですが、あくまでひとつの解釈の仕方として、「過剰ではなく中庸を目指す」「何事もバランスである」という考えを、皆さんの頭の片隅に置いてみては如何でしょうか。
今回は孔子の「論語」が出典となる、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉について解説をさせて頂きました。
過去の時代の言葉でありながら、人間の生き方、在り方について解く孔子の教えは、現代を生きる私たちにとっても、重要な考え方を示唆してくれています。
皆さんが人生の上で何かに迷った時、例えば孔子はどんなことを言っていたのだろうと、論語を開いて読んでみるのも、解決の糸口になるかもしれません。
最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました。