「身に余る光栄」の意味・類語【使い方や例文】
とても偉い方から自分が誉められたり、何か表彰を受けたりした時は、とても嬉しくなるのが、素直な気持ちではないでしょうか?
自分の人生で何回も経験することがないまたとない機会のはずです。
この表現は、時折、聞くことがありますし、もしかすると自分も大きな名誉で偉い方からねぎらいの言葉をかけられたりした時に使うことがあるかもしれません。
今回は、この「身に余る光栄」について考えてみたいと思います。
目次
- 「身に余る光栄」の意味とは?
- 「身に余る光栄」の読み方
- 「身に余る光栄」の言葉の使い方
- 「身に余る光栄」を使った例文・短文(解釈)
- 「身に余る光栄」の英語と解釈
- 「身に余る光栄」の類語や類義表現
「身に余る光栄」の意味とは?
「身に余る光栄」の「身」とは、「自分自身のこと」を指しており、「わが身が可愛い」といったいような表現で使いますが、「身に余る」とは「自分自身に分不相応だ」、「相応しくない」という意味合いになり、「身に余る光栄」となると、「私ごときには、もったいないほどの栄誉なこと」というへりくだった喜びを表現している言葉です。
この言葉は、とても偉い人からの褒め言葉などに対する返礼を慎ましやかに表現することができるわけです。
「身に余る光栄」の読み方
「身に余る光栄」は、「みにあまるこうえい」というふうに読むことになります。
「身に余る光栄」の言葉の使い方
「身に余る光栄」を使うのは、高貴な人や地位の高い人などから誉められたり、表彰される場合も時に出てくる表現でしょう。
「身に余る光栄」を使った例文・短文(解釈)
では、ここから「身に余る光栄」を使った例文を見ていくことで、活用シーンもイメージしやすくなります。
- 「身に余る光栄」の例文1
- 「身に余る光栄」の例文2
- 「身に余る光栄」の例文3
「身に余る光栄」の例文1
「天皇の息子である皇太子と、一般人からすれば、友情の気持ちを共有できることは、身に余る光栄としか言いようがありません」
皇太子様だって、1人の人間に過ぎないと言えば、それまでのことですが、やはり皇太子様とさりげなく自然体で、比較的に軽い気持ちでおしゃべりができることは、とても光栄なことなのかもしれせん。
「身に余る光栄」の例文2
「神の名の元に磔になるのでば、それこそ身に余る光栄と言えます」
神の前に多くの人が集まっている中での光景でしょうが、神に仕える人はどんなにむごい仕打ちでも、光栄に感じることができるかもしれません。
「身に余る光栄」の例文3
「入選者の喜びのコメントは時々、テレビやネット番組でもみることがありますが、誰もが『身に余る光栄』と言っています」
このような場面はインターネットやテレビのニュース番組などで見ることがよくありますが、とても名誉なことを謙遜して表現しています。
「身に余る光栄」の英語と解釈
「身に余る光栄」を英語で言うなら、“The honor is more than I deserve”や“I feel honored”という表現があります。
「身に余る光栄」の類語や類義表現
では、ここから「身に余る光栄」のる意義的な表現で確認していこうと思います。
- 「もったいないお言葉」
- 過分なお褒めをいただきまして
- 「恐縮至極に存じます」
「もったいないお言葉」
この言葉の中に含まれている「もったいない」という言葉を使う時は、おそらく「捨てることがもったいない」、あるいは「まだ食べられるのにもったいない」、「諦めるにはもったいない」といったような言い方が「惜しい」という意味を含んだ言葉になってきます。
これが「もったいないお言葉」となると、目上の人に褒められた時に使う「喜ばしい」という意味になってきます。
会社の社長などから何が言われた時に、「私にはもったいないお言葉です」という謙遜の言い方をします。
この場合の言葉の意味が、「もったいない」という意味を有しているわけではありません。
「私のようなものに」に対して「素晴らしい言葉を掛けていただくのはもったいないこと」ということを指しています。
この「もったいない」は「惜しい」という意味が含まれており、「残念」な感情はあまり含まれていなくて「嬉しい」とか「最高に幸せ」というプラス的で前向きの感情が含まれています。
過分なお褒めをいただきまして
「過分なお褒めをいただきまして」も「身に余る光景」に近い意味があるではないかと思います。
この表現の意味は、「目上の人などから褒められた時」に使われます。
自分の身分や立場よりも度が過ぎたことで、「釣り合わない」や「身分不相応で、自分の立場や能力に適切な程度を越えている」といったような意味を持っています。
また、この表現には「態度そのものが不遜的で分をわきまえていない」状態を指し示すこともあります。
あるいは「自分が思っているよりも、物事の量が多く、質も高いこと」といった時にでも使用しています。
ここでの「過分」は、「自分の本来の身の程より分に過ぎて、あまりにも良すぎる扱いを受けている」と、そのような行いをして人に感謝する時に使われる表現です。
このことから「過分なお言葉」とは、「相手からほめられたり、ねぎらいの言葉などを受けた際に、自分をへりくだって感謝を意を伝える言い方です。
「恐縮至極に存じます」
「恐縮至極に存じます」の「恐縮(きょうしゅく)」の意味は、「恐れて身がすくむこと」や、「相手に迷惑をかけたり、相手の厚意を受けたりして申し訳なく思う」ことを指しています。
また、「至極(しごく)」の意味は、「この上ないこと」や「これ以上ないこと」と言い意味がある言葉です。
これらが2つにあわせると、「恐縮至極」の意味は「この上なく恐れ入ること」、あるいは「この上なく申し訳ないと思うこと」ということになります。
尚、「これ以上なく申し訳なく思う気持ち」を相手に伝えたい時に使うこともあります。
このように「身に余る光栄」とは、本当に自分の身がすくむような場面で使われる言葉ですが、類義語も含めて、何か自分をへりくだたせたり、謙遜する形で使われることは、ある意味日本語の素晴らしさにつながることがほとんどではないかと思うのです。
「身に余る光栄」という振る舞いは、天皇陛下が思わず目の前に立たれた時でも、ごく自然に使われる場合がありますが、1度このような経験をすることで、自分の人生がとても充実したものに感じていくことになるでしょう。
言葉には色々な意味や言葉の重みをひしひしと伝わっている中で、この言葉もその1つなのだということを噛み締めてください。